なめ茸開発の元祖 信州 小林農園

えのき茸の冷房栽培、
そして『なめ茸』の誕生!!

えのき茸の冷房栽培

昭和44年頃のえのき茸栽培、野生種えのき茸栽培

長野県埴科郡戸倉町の農家に産まれた創業者 小林崇章は、跡継ぎとして農業高校で学び、大好きなバラの技術を取得。バラ農園を開き、全国から技術を学びに来ていただく程になった。しかし近所の火災により全滅。そこで学生時代に学んだ菌類を研究し、当時は季節でしか食べられない“えのき茸”の通年栽培に着手した。

 

“冷房”という機械も無かった時代に小屋を建て、茸を栽培出来る気温にする為に失敗と改良を繰り返し、ついに瓶だけでなく一斗缶でも“一年中”栽培出来る事に成功。 元々野生のえのき茸は茶色であるが、人工栽培により日光に当てずにいると色白になり、「これは珍しい」と築地など市場に出荷してみたが、需要の少ない真夏に、しかも見た事の無い白いえのき茸は中々理解が得られずにいた。
しかし、ある会社が「珍しい茸を見たが取引をしたい」と電話を小林にしてきた。そこで余ったえのき茸を砂糖と醤油で煮た物を瓶に詰めて上京。商談をしている際にその瓶詰を試食してもらったところ絶賛していただき、えのき茸だけでなく瓶詰めも販売する事になった。これが『なめ茸』の誕生である。

 

当時、なめ茸は従業員の一日の日当と同等になるくらい高価であったが、東京など都会で仕事をしている家庭で、簡単に食べられて珍しい惣菜として非常に引き合いがあった。その後、学校給食、生活協同組合などでも取り扱われるようになり、今では至る所で“ご飯のお供”として広がっている。

 

小林農園の歩み
昭和32年9月 個人経営にてナメ茸(現在のえのき茸。当時えのき茸は各地方で色々な呼び名があり、この地域ではナメ茸と呼ばれていた)の栽培開始。各地のナメ茸野生菌を採集して比較培養を行い、形質の優れた品種を発見、育成する。
昭和33年 有志を募って千曲茸研究会を組織し、各種菌茸類の培養研究、生産技術の確立及び国内消費市場の拡大を図る。
昭和34年 世界初の新技術「ナメ茸冷房栽培法」を確立し、ナメ茸の周年栽培を実現。
従来、冷涼低温期に限られたナメ茸等の茸産業に生産革命を起こす。
生食用市場出荷も「ナメ茸」の名称であったが、市場の要請によりスギ茸属の「ナメコ」との混同を避ける為「えのき茸」と改称する。以後この名称が定着する。
昭和35年 培養瓶数5万本に増設、業界第1位。
えのき茸の佃煮を試作して各地の食品企業に製造販売を提案。夏期のえのき茸不需要対策として、余剰えのき茸の加工販売拡大に奔走する。
昭和36年 えのき茸の佃煮を製造。瓶詰加工食品として商品名「なめ茸」を新発売。東京の大手商社の協力を得て、高級珍味食品としてデパート販売等で人気を得る。
昭和37年 えのき茸の消費拡大と市場価格の安定の為、有名料理研究家等にえのき茸を無償供与。各地有力食品企業に瓶詰加工食品「なめ茸」の製造販売を提案、加工食品「なめ茸産業」の形成発展に貢献。
昭和39年3月 法人に改組、資本金100万円。保有瓶数10万本。
昭和40年 埼玉の食品会社に協力し、低価格なめ茸による消費拡大、大衆化を図る。以降、低価格なめ茸生産に参入する企業続出。価格競争により先発メーカーの多くが生産中止、倒産等で業界から消える。
昭和41年4月 木ノ江物産(株)設立、なめ茸用半製品原料の製造開始。なめ茸原料価格の安定、原料生えのき等の輸送困難な遠隔地メーカーへの供給を行う。
昭和42年 保有瓶数15万本。 えのき茸産業、なめ茸産業のリーディングカンパニー。
昭和44年 大型容器(18ℓ缶)による食用菌茸の培養法確立。以降、菌茸類培養瓶の大型化が進み大規模生産者増加する。
昭和46年 食品部を設置して木ノ江物産(株)を吸収、業務を引き継ぐ。
昭和47年4月 漬物製造業及び惣菜製造業の営業許可取得。小の字菱印ブランドで食品製造販売開始。自然と健康とおいしさにこだわる食品開発を目指す。
平成4年10月 増資。新資本金500万円。
平成13年 増資。新資本金1,500万円。元祖なめ茸シリーズ、山幸彦シリーズの商品群を主力に高品位の無添加食品を、こだわり食品専門ルートへ販売中。本物の味を追求する食の匠として豊かな食文化向上に寄与しています。